山形発!長編ドキュメンタリー映画『湯の里ひじおり-学校のある最後の1年』は、山形県大蔵村肘折温泉の1年を記録しました。故郷、地域に暮らすことの愛おしさが伝わってきます。心が癒され、元気がでてくる映画です!!
渡辺監督がメルマガneoneoにつづる「『湯の里ひじおり―学校のある最後の1年』が出来るまで」第3回は、変わりゆく湯治場に向き合った撮影当時のエピソードがつづられます。
ドキュメンタリー映画の最前線メールマガジンneoneo
http://homepage2.nifty.com/negri-project/neoneo/
『湯の里ひじおり―学校のある最後の1年』が出来るまで(3)
渡辺 智史
●湯治文化の変遷
江戸時代にはお伊勢参りに並ぶ程、多くの人が月山を目指して肘折温泉に訪れていました。明治時代以降は、大勢の農家が湯治に訪れ、布団を敷く場所がないほどだったと言います。そして今は専業農家が減り、生活スタイルが変化したことから湯治客は減り続け、湯治場での仕事が減り、人口は都会へ流出し、地域社会と共に134年の歴史を歩んできた学校が閉校した。たった百数十年の間で、日本の暮らしに根付いてきた信仰の世界、湯治という風習が、急激に消えつつあります。この肘折温泉と似た状況をどの地域社会も抱えていて、過疎化を防ごうと、公共の事業を誘致した事例の多くは経済的に赤字経営になり、過疎化はより深刻になっています。そして、多くの地域社会は疲弊し自信をなくしています。これからの時代、地域固有の文化を、それぞれのやり方で掘り下げて行かなければならない時代なのだと思います。
肘折温泉には、湯治という文化が時代の変化に合わせながら受け継がれてきました。湯治客の人々にとって肘折に来て、日常の忙しさから解放されて何もせず、湯に入り、お茶を飲み、友人と話し、疲れたら寝るという行為を一週間以上続けます。そういう時間をもつことで本当の心のゆとりが生まれるのです。湯治客の人々の取材は、ゆったりと会話を楽しむように、大変楽しい時間でした。何十年も湯治に通い続ける親子、大勢の姉妹で湯治に来て楽しんでいく姿、隣近所で集まって修学旅行に来たかのようにはしゃぐお婆さん達の会話、そういう人間模様が湯治場の活気なのです。
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『湯の里ひじおり―学校のある最後の1年』が出来るまで(3)
渡辺 智史
●湯治文化の変遷
江戸時代にはお伊勢参りに並ぶ程、多くの人が月山を目指して肘折温泉に訪れていました。明治時代以降は、大勢の農家が湯治に訪れ、布団を敷く場所がないほどだったと言います。そして今は専業農家が減り、生活スタイルが変化したことから湯治客は減り続け、湯治場での仕事が減り、人口は都会へ流出し、地域社会と共に134年の歴史を歩んできた学校が閉校した。たった百数十年の間で、日本の暮らしに根付いてきた信仰の世界、湯治という風習が、急激に消えつつあります。この肘折温泉と似た状況をどの地域社会も抱えていて、過疎化を防ごうと、公共の事業を誘致した事例の多くは経済的に赤字経営になり、過疎化はより深刻になっています。そして、多くの地域社会は疲弊し自信をなくしています。これからの時代、地域固有の文化を、それぞれのやり方で掘り下げて行かなければならない時代なのだと思います。
肘折温泉には、湯治という文化が時代の変化に合わせながら受け継がれてきました。湯治客の人々にとって肘折に来て、日常の忙しさから解放されて何もせず、湯に入り、お茶を飲み、友人と話し、疲れたら寝るという行為を一週間以上続けます。そういう時間をもつことで本当の心のゆとりが生まれるのです。湯治客の人々の取材は、ゆったりと会話を楽しむように、大変楽しい時間でした。何十年も湯治に通い続ける親子、大勢の姉妹で湯治に来て楽しんでいく姿、隣近所で集まって修学旅行に来たかのようにはしゃぐお婆さん達の会話、そういう人間模様が湯治場の活気なのです。
賑やかでなくても、しっとりとした湯治場の魅力もあります。夫と何十年も肘折温泉に通い続けてきたが、夫が亡くなり一人で通う農家のお婆さんは、肘折で出会った東京の女性と一緒に湯治をするのを楽しみにしていました。それが、東京の女性が癌になり来られなくなってしまった。自分より若い女性が、死に瀕していることを気遣いながら茶を飲む姿、そして黙々と湯に浸かり、老いてもなお艶やかな体を洗うお婆さんの姿に、何とも言えない愛おしさを感じました。
かつての大繁盛した湯治場の姿はないけれども、湯治場に魅せられて通い続ける人々から、なんとも素朴で温かさが伝わってくるのでした。昔ながらの湯治場は、襖と障子で仕切られているので、各部屋からは話し声や、テレビの音が聞こえてきます。ホテルの密室のようにプライベートがある環境ではありません。湯治場で何泊もすると、そういった物音、人の気配がある環境に居心地がよくなっていきます。こういう環境で何日も居ると心のゆとり、許容性が広くなっていくのだと気づきました。70歳、80歳の農家の人々が醸し出す開放的な雰囲気が、訪れた都会の観光客の心を癒してくれるのではないでしょうか。
しかし下着同然で歩く老人の姿を見て、老人ホームだとぼやく都会の若者をいると、旅館主は嘆きつつ、東京の巣鴨のように老人が集まってくる環境は珍しいのだから、それ自体が観光資源でもあるのではないだろうかとポジティブに現状を捉えています。
実際には学校が閉校すること、客が減ってきていることで、集落そのものが老いていく現実に自信をなくし、不安を抱えている肘折の人々もいます。しかし私が取材しながら感じた魅力を、映画で提示することで自信をなくした人々に元気を与えるような映画がつくれるのではないかと思ったのです。それは湯治場の日常から再生のイメージを立ち上げることなのだと直観しました。
湯治場に暮らす人々で、強烈に印象に残ったのは饅頭屋のお婆さんで、40年以上も前に、ある一人の白装束を着た修験者が、饅頭屋に来て山の中のぼろぼろのお堂を建て替えたから、掃除を頼むと言われ40年もお堂を掃除し続けてきた話を、まるで民話の語り部のようにイメージ豊かに語ってくれました。
また修験者を月山に案内する先達の末裔の老人は、妻を亡くし一人で暮らしています。その老人が亡き妻を想い祝詞をあげた後に、湯にじっくりとつかり瞑想する様子を撮影しながら、人が生き、老いることの魅力を感じました。この二人の老人が湯治場で暮らす時間から、湯治場に暮らす人々の気風が伝わってきました。日々の暮らしに宿る、村の魅力は見えにくく、言葉にしづらいものです。言葉に出来ないものを映像で伝えたい、そう強く思ったのです。
一方で、学校が閉校するという現実に対して、映画で応えたいと思いました。肘折温泉に帰ってきた若者と話しながら、学校に眠っている楽器を使ってブラスバンドを立ち上げることになったのです。若者達と語りながら、彼らの言葉から肘折温泉の暮らしを愛する気持ちがひしひしと伝わって来ました。それは、私が湯治場を取材しながら感じたことと共通する思いでした。老いていく村を見つめ続け、村に暮らす若者と地域への愛を語り合うなかで、映画の物語は生まれました。学校の閉校式での演奏に向けて、若者達のブラスバンドの練習が始まり、厳しい冬の間も練習が続きました。
この映画は3月末に文化庁に見せなくてはなりませんでした。しかし学校の閉校式は3月の21日、最後の閉校式の撮影を残して、それ以外の編集は閉校式の前までには終えていなくては間に合わないスケジュールでした。編集の作業は1月から始まりました。この時点では、私と飯塚さんで編集の作業をし、構成を練りながら3時間のラッシュを作ったのですが、魅力的な編集に仕上がりませんでした。撮影の現場で考えたことから抜け出せず、思い切った編集が出来なかったのです。そして、大ベテランの編集者で原一男監督の『ゆきゆきて神軍』を構成・編集した鍋島惇さんが参加することになりました。鍋島さんとの編集の追い込みが始まりました。
次回は編集で、大ベテランの鍋島惇さんに教えていただいたこと、そして上映活動でのエピソードをお伝えします。 (つづく)
かつての大繁盛した湯治場の姿はないけれども、湯治場に魅せられて通い続ける人々から、なんとも素朴で温かさが伝わってくるのでした。昔ながらの湯治場は、襖と障子で仕切られているので、各部屋からは話し声や、テレビの音が聞こえてきます。ホテルの密室のようにプライベートがある環境ではありません。湯治場で何泊もすると、そういった物音、人の気配がある環境に居心地がよくなっていきます。こういう環境で何日も居ると心のゆとり、許容性が広くなっていくのだと気づきました。70歳、80歳の農家の人々が醸し出す開放的な雰囲気が、訪れた都会の観光客の心を癒してくれるのではないでしょうか。
しかし下着同然で歩く老人の姿を見て、老人ホームだとぼやく都会の若者をいると、旅館主は嘆きつつ、東京の巣鴨のように老人が集まってくる環境は珍しいのだから、それ自体が観光資源でもあるのではないだろうかとポジティブに現状を捉えています。
実際には学校が閉校すること、客が減ってきていることで、集落そのものが老いていく現実に自信をなくし、不安を抱えている肘折の人々もいます。しかし私が取材しながら感じた魅力を、映画で提示することで自信をなくした人々に元気を与えるような映画がつくれるのではないかと思ったのです。それは湯治場の日常から再生のイメージを立ち上げることなのだと直観しました。
湯治場に暮らす人々で、強烈に印象に残ったのは饅頭屋のお婆さんで、40年以上も前に、ある一人の白装束を着た修験者が、饅頭屋に来て山の中のぼろぼろのお堂を建て替えたから、掃除を頼むと言われ40年もお堂を掃除し続けてきた話を、まるで民話の語り部のようにイメージ豊かに語ってくれました。
また修験者を月山に案内する先達の末裔の老人は、妻を亡くし一人で暮らしています。その老人が亡き妻を想い祝詞をあげた後に、湯にじっくりとつかり瞑想する様子を撮影しながら、人が生き、老いることの魅力を感じました。この二人の老人が湯治場で暮らす時間から、湯治場に暮らす人々の気風が伝わってきました。日々の暮らしに宿る、村の魅力は見えにくく、言葉にしづらいものです。言葉に出来ないものを映像で伝えたい、そう強く思ったのです。
一方で、学校が閉校するという現実に対して、映画で応えたいと思いました。肘折温泉に帰ってきた若者と話しながら、学校に眠っている楽器を使ってブラスバンドを立ち上げることになったのです。若者達と語りながら、彼らの言葉から肘折温泉の暮らしを愛する気持ちがひしひしと伝わって来ました。それは、私が湯治場を取材しながら感じたことと共通する思いでした。老いていく村を見つめ続け、村に暮らす若者と地域への愛を語り合うなかで、映画の物語は生まれました。学校の閉校式での演奏に向けて、若者達のブラスバンドの練習が始まり、厳しい冬の間も練習が続きました。
この映画は3月末に文化庁に見せなくてはなりませんでした。しかし学校の閉校式は3月の21日、最後の閉校式の撮影を残して、それ以外の編集は閉校式の前までには終えていなくては間に合わないスケジュールでした。編集の作業は1月から始まりました。この時点では、私と飯塚さんで編集の作業をし、構成を練りながら3時間のラッシュを作ったのですが、魅力的な編集に仕上がりませんでした。撮影の現場で考えたことから抜け出せず、思い切った編集が出来なかったのです。そして、大ベテランの編集者で原一男監督の『ゆきゆきて神軍』を構成・編集した鍋島惇さんが参加することになりました。鍋島さんとの編集の追い込みが始まりました。
次回は編集で、大ベテランの鍋島惇さんに教えていただいたこと、そして上映活動でのエピソードをお伝えします。 (つづく)
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